SPECIAL
特集
正統派
正統派
「正統派」という言葉。始祖の教義 や 主張・学説 などを最も正しく忠実に継承していると称している 流派 。王道。サバティーニは正統派イタリアン。オール阪神・巨人は正統派漫才。夏目漱石は正統派純文学。北川景子は正統派美人。吉沢亮は国宝級正統派イケメン。わかったようなわからないような。
正統派ピアニストという言葉を聞いても、ピンとこない。しかし、個性派ピアニストという言葉を聞くと、何人かの顔がすぐ頭に浮かぶ。フリードリッヒ・グルダ。フジコ・ヘミング。ラン・ラン。最近大人気の日本人若手ピアニスト。
しかし、田尻洋一との会話の中に出てくる過去のピアニストたちの音源や映像に繰り返し触れていると、正統派という言葉のイメージがぼんやりと見えてくる。ケンプ。ルービンシュタイン。バックハウス。クララ・ハスキル。リヒテル。
楽譜に忠実である。楽譜に書いてあるものをそのまま演奏する。作曲者の音楽性を尊重した演奏。演奏家が自分の個性を上乗せしない。ニュートラルで清々しい。余計な狭雑物を徹底的に排除したかのような清澄さを有する。論理的に破綻をきたすような身勝手な解釈を排除することで、その正統性を培い存在させる。エコノミックな文禍に汚されていない。
「すべては楽譜に書いてある。ベートーヴェンやショパンたちが作った音楽を知る手がかりは彼らが残した楽譜の中にしかない。」田尻洋一は続ける。「譜読みというのは、彼らの楽譜を鍵盤の上に置き換えること。ピアニストのすべきことは彼らの楽譜をピアノで再現すること。」しかし、田尻洋一が楽譜を再現するという意味は、ただ単に楽譜の音をピアノの鍵盤でなぞるだけではない。田尻の考える正統派の真髄はさらにその奥にある。正統派が楽譜を再現するとは?楽譜に表示されている音楽用語の醸し出す音質、拍子感、一瞬一瞬のメロディーやハーモニーのバランス、そして一音一音の響きの美しさ。正統派の演奏のなかには、瞬間瞬間に途方もない緻密な計算がある。
田尻洋一の演奏には、演出はない。ピアノに向き合い、すべて暗譜で演奏する。顔の表情は変わらない。姿勢を崩したり、上半身を揺らしたり、前かがみになったり、背中を反らしたりもしない。ただ聴いていて心地よい。魂が癒される。譜面通りの正確なテンポとリズム。美しく際立つメロディー。計算されたハーモニー。完璧に練られた構成と展開。明瞭さ。誇張を排除した節度ある情熱。温かさ。優しさ。そして気品と風格。それが田尻洋一の演奏だ。
「前のめりせず、自然体で。」田尻洋一の笑顔には、その謙虚な姿勢が滲みでている。その佇まいは、正統派たる気品をまとっている。