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ベートーヴェンの生まれ変わり

ベートーヴェンの生まれ変わり

ベートーヴェンの誕生日は明確には記録が残っていない。しかし1770年12月17日に洗礼を受けたとされているので、生まれた翌日に洗礼を受けるという当時の慣習から12月16日前後であろうという説が有力とされている。田尻洋一の誕生日は1962年12月。192年という長い時間がそこには流れている。しかし、もしかしたらベートーヴェンと同じ誕生日かもしれない、ということが田尻洋一に勇気を与えてきた。自分はベートーヴェンの生まれ変わりかもしれない、そう自分自身に言いきかせることで。

そして実際に田尻洋一の音楽の源流をたどると、ベートーヴェンに行きつくのだ。これぞまさしくドイツ正統派の本流。

田尻洋一の師はイディル・ビレット。イディル・ビレットの師はケンプ。ケンプの師はレシェティツキ。レシェティツキの師はチェルニー。そしてチェルニーの師はベートーヴェン。つまり、田尻洋一は ベートーヴェンの直弟子(チェルニー)の直弟子(レシェティツキ)の直弟子(ケンプ)の直弟子(イディル・ビレット)の唯一の直弟子だ。すなわち、田尻洋一はベートーヴェンの直系なのだ。

茶道の世界には「口伝」という言葉がある。入門から長い年月を経て、いよいよ一人の茶人として認められるようになる最後の総仕上げの段階で 師匠から弟子へ直接言葉や手本で伝えられる秘伝や秘訣のこと である。教本はなく、その内容を書き記して公にすることは禁じられている。直弟子でなければ接することのできない呼吸や仕草。姿勢や眼差し。居ずまいや佇まい。それは実践的な技術の伝承だけではなく、精神性や哲学の継承でもある。田尻洋一は、ピアノの世界で「正統派」という血脈を受け継ぎ、今も頑なに守り続けている数少ない日本人ピアニストの一人である。お金さえあれば何でも簡単に手に入れることのできる現代において、お金では買えないものもある。それは、時間と経験と正しい導きである。そこにこそクラシック音楽の精神が宿っている。田尻洋一はその精神を守り続けている。お金を度外視しても守らなければならないという強い使命感を持って。

田尻洋一のファンの一人が アメリカの小説家ヘンリー・ミラーの愛用してたシルクハットを所有しており、その方に促され田尻はやや照れながらその歴史的価値のあるヴィンテージをそっと頭にのせた。ヘンリー・ミラーは1891年生まれで、代表作は『北回帰線』。 ロシアの作曲家プロコフィエフ と同い年。因みにケンプは4年後の1895年にドイツで生まれた。田尻洋一が生まれた1962年、ケンプは67歳。イディル・ビレットは21歳。